こんばんは、インテリアコーディネーターの住吉です。今日はアートの話。というのも、4回目開催となった『アートライフスタイリスト2級特別講座』が今月末の2020年1月30日(木)開催となりました。セミナーでは、アートの探し方、選び方、買い方、飾り方、管理の仕方、観賞の仕方、活用事例+表参道ギャラリーツアー、と、てんこ盛りなので、今日はその中から一部を深掘りして書いていきます。
アート = 美しいものと思っていませんか?
講座の中で『アートとは?』についてお話しをしています。アートと聞くと、なんとなく『美しいもの』なんだろう、と思っている人が多いかも知れません。私の仮説では、アートが『苦手』『わからない』という人は、世の中が賞賛するアートを見たときに『全然美しくないじゃん』と思って、以来、興味をなくしてしまっている人なんじゃないかと思うのです。
ですが、そういう素直な感性こそ、アートには必要不可欠であり、素質あり!なのです。
美しいとは
まず最初に、美しさについて。私たちには五感があり、それぞれの感覚が快・不快を感じます。視覚の快は『美しい』、聴覚は『心地良い』、味覚は『美味しい』、触覚は『気持ちいい』、嗅覚は『いい香り』というように。美しいとは、視覚的に快を感じている状態なのです。
なので、美しいと思うものはたくさんあります。壮大な自然の風景や都会の夜景、ジャングルの珍しい生き物や道端に咲く花、鍛えた肉体や、艶々の黒髪など、整然と並んだものに美しさを感じることもあれば、カオスの中に美を見つけることもあります。
アートとは美しいものでしかるべき?
冒頭にも書いたように、アートを見て『なんて美しいんだ!』と感動するのが、アートが『わかる』人であり、そう思えない人はアートが『わからない』人、みたいな雰囲気…ありますよね。
2020年の現代において、その考え方は全く正しくないのですが、じゃあなぜそう思っている人が多いのか?については、知っていただきたいと思います。アートにおける美しさとは、どんなアートを美しいと評価するかを知るには、西洋美術史をぺろっと舐めておくといいですよ〜。
まあ、こっち(美術史)はこっちでハードル高い!と思うかもしれませんが、別に何かを覚えておく必要はないと思っているので、サクッと読んでいただけると嬉しいです。
美の源流はギリシャ・ローマ時代
まず『何を美しいと感じるか』には、文化の違いがあることは、なんとなくお分かりかと思います。日本人が当たり前に行っていること(例えば試合観戦後のスタジアムの後片付けなど)が、海外で高く評価されるのは、国や文化によって美意識が異なることのあらわれですよね。
視覚的な美しさのグローバル基準は、言わずもがな西洋文化です。その西洋文化における美しさの規範・古典、つまり美の源流はギリシャ・ローマ時代の彫刻(や、建造物)なのです。当時、美しいものは神が喜ぶと考えていたギリシャ人は『美=善』という価値観のもと、肉体美を彫刻にしました。
ルネサンスの巨匠たちがアート=美を昇華させた
ギリシャ・ローマ時代の後は、キリスト教が広まることで、アートの立ち位置に変化が起こります。ローマ帝国の国教となったキリスト教は、ギリシャ・ローマ時代の文化(学問やアート )を『異教』として否定!アートを布教活動や、教会の権威を示すものとして利用し始めました。アートの力、影響力の大きさを知っていたキリスト教は、たくさんの彫刻や絵画の制作を依頼するようになるのですが、それらを制作しているのは職人でした。教皇や王族からの大規模な依頼に答えるため、高い技術を持ったトップクリエイターが工房を組織し、たくさんの弟子を抱えて制作を行っていました。
そんな中、あの有名な『ルネサンス』が起こります。ルネサンスとは『再生』を意味する、というのは聞いたことがあるかも知れません。じゃあ、なんの再生か?それは、ギリシャ・ローマ時代の再生です。しかし、現代の日本人のほとんどが古典文学に馴染みがないように、当時のイタリア人も1000年以上前のギリシャ・ローマ時代の文化(文学や哲学や芸術)に詳しい人というのは、貴族階級などの一部の知識人だけでした。
そういった時代背景の中、絵や彫刻を作るのが上手で、かつギリシャ・ローマ文化にも造詣が深い知識人でもある人は、一般的な職人とは一線を画す『芸術家』として『作品』を生み出すようになります。有名なのは、ダヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ。この巨匠3人は当然のように絵や彫刻がとっても上手で、油絵でものすごくボカしを効かせた塗り方や、一点透視で自然な遠近感を表現する方法などを発明するのですが、絵のうまさだけで当時からもてはやされていたわけではなく、万能人として評価されていたのです。
中でも一番絵が上手だったラファエロの様式が、その後の西洋における絵画の古典となっていったことで、アート=美しいもの、という価値観が再度構築されました。
美しさの感覚は人それぞれ!反逆者集団、現る
ルネサンス以降、アートは宗教と徐々に距離を置いていき、オランダやフランスなどで様々な表現方法が生まれます。テーマや描く対象、絵画の依頼主なども徐々に変化しますが、常に『絵がうまい(まるで本物のように描く)』ことは必須の条件でした。まだ写真の無い時代において、絵画が唯一、目の前の世界を閉じ込めておけるものだったし、見たこともない世界を知るためのツールだったのです。
しかし、そんな『良いアート=上手な絵=美しいもの』という概念を、フランスの一部のアヴァンギャルドな集団がぶっ壊そうとします。それが『印象派』です。「ん?印象派がアヴァンギャルド集団ってどういうこと?」と思う方も少なからずいると思います。「モネの睡蓮なんて『美しいアート 』の代表格のように扱われているじゃないか!」と。そうなんです、今は。
しかし、印象派が生まれた時はその評価は180度違っていました。印象派のアーティストたちは、写実性に拘らず、自分たちが感じたままの美しさをキャンバスにおさめようとしました。しかし、ラファエロ以降数100年『これが美しいものだ』と言われてきたものとは随分と様子が違っていたため、当時フランスで画家として作品を発表し、活躍するための唯一の場だった『サロン』に入会すらできなかったのです。そこで彼らは自らが展覧会を企画し、サロンを無視して作品を発表したのです、まさに反逆者集団。
文化は美しさのバックボーン
しかも、当時のフランスで、印象派はかなり長い間評価されませんでした。皮肉なことに、アメリカ人コレクターがこぞって印象派の作品を買ったことで、自国でも評価されるようになったと言われています。また、バブルの頃の日本人も、印象派の作品をオークションで買い漁りました。
アメリカ人や日本人が印象派を高く評価したのは、それを純粋に『美しい』と感じたからだと思います。逆に、当時のフランスで多くの人が嫌悪感を示した(皮膚が腐っているようだ、などひどい言われ方をしています)のは、なぜでしょうか。それこそが、文化の違いです。
文化が違うと、美意識が異なるという話を冒頭にしました。アートも同じように、文化や見る人のバックボーンによって感じ方が違います。美しいと感じる人もいれば、そうじゃない人がいる、それはごくごく普通のことだと、私は思います。
アートの好き嫌いには正直に
たとえ、ものすごくたくさんの人が絶賛する作品を見たときに「これのどこがそんなにすごいの?」と思ったとしても、それはその人の感性の問題ではないというのが、私のスタンスです。好き嫌いの問題、くらいの認識。
私の周りに、フォアグラが苦手な人がいます。牡蠣がまずい、という人がいます。キュウリが絶対に食べられない人がいます。そのくらいの感覚で、アートについても『好きなものは好き、わからんものはわからん』で良いんです。
ただ、興味はあるけど苦手意識もある、とか、敷居が高くて自分には関係がないと思っている人には、発想の転換をして、アートを少しでも身近に感じてもらえると嬉しいです。
もっと知りたい!と思った方は、ぜひ『アートライフスタイリスト2級特別講座』をご検討ください。日程、場所、費用等の詳細はこちらからご確認いただけます。
実はこの話は続きます。次回は現代アートがわからん!について書きたいと思います。
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